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★中村とうようコレクション展に行って来た [⇒中村とうよう]

9月24日まで武蔵野美術大学で開催されていた「中村とうようコレクション展」に行って来た。

本当はもっと早く行きたかったが、最終日ギリギリに何とか間に合った。

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武蔵美に行くのは20年以上ぶりだろうか。恥ずかしい話だが、大学受験の現役時代、一度受験をしたことがある。

美的センスの無い自分は当然落ちたのだが、受験と合格発表で2~3度来た事があっただろうか。

しかし、それだけ間が空いているので、駅からの道をまったく覚えていなかった。こんなみち通ったっけ?と歩きながら、ひたすら思っていた。

鷹の台の駅から20分ほどかけてたどり着いた武蔵美は、上野にある某国立芸術大学なんかより遥かに綺麗な感じがした。

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入り口をまっすぐ突き進んで行った所にとうようさんのコレクションが展示されているスペースがあった。

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事前にこの展示についての話を読んだところ、展示スペースも小さく数も少ないという事で、あまり期待してはいなかったのだが、実際見てみて、これはこれで充実した内容だと感じた。

確かに、ほんとに小さな一角の展示室だったので、楽器やレコードの数は少ない方だったが、とうようさんの言葉に「今回を第1回として、機会があればまた角度をかえた展示や公演を試みてみたい」あるように、続きを考えた上での構成だったような気がする。

それに、普段はなかなか見られない楽器をジックリ見られたり、楽器から推測する世界の音楽の流布に関するとうようさんの考察はかなり読み応えがあった。

また、懐かしのレコード・ジャケットなどは音楽好きに取っては垂涎のアイテムがいくつもあった。正直、エルフィの「シリン・ファルハット」などはCDでなく、アナログ盤のジャケットの方が良かった気もするが、まぁ、これはこれで良しとしよう。

一つ残念だったのは、音楽にまつわる展示だったにもかかわらず、展示室は無音状態だった事。この選択にはとうようさんもかかわっていたと思うが、やはり、音楽が流れている状態でリラックスしながら楽しむのが、こういった展覧会にはあっているのだと思う。

とうようさんのコレクションはまだまだあるようなので、氏が亡き後も数多くいる良き理解者の手で、展覧会は続けていって欲しいと思う。

★追悼、中村とうようさんの遺産(4)・・・ハムザ・エル・ディン [⇒中村とうよう]

◆Hamza El Din(ハムザ・エル・ディン) / A Journey(ナイルの流れのように)
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ハムザ(・エル・ディン)さんと中村とうようさんは、音楽家と評論家という関係だけでなく、友人としてもとても仲が良かったようだ。

ハムザさんは日本にも住んでいたという事もあるかもしれないが、彼の自叙伝「ナイルの流れのように」という本もとうようさんが訳して、日本で出版されていた事もあった。

そして、文字だけでなく、音としてもハムザさんの魅力を知ってもらうために、とうようさんが選曲・構成・解説をしたのが本CDである。

1990年にキング・レコードから発売されたものであるが、音源は1970年代にレコーディングされた1枚目と2枚目のアルバムからの選曲。

ハムザさんの音楽は民族音楽にカテゴライズされるものであるから、エレクトロニクス系の音は無く、基本的にウードとタールの編成で演奏されるが、その感触は驚くほどにポップ。

それも、常に世界中を飛び回っていたハムザさんだからこそのグローバルな感覚が成し得た音楽世界だと思う。

このアルバムにはその後も度々録音されたハムザさんの代表曲も多く収録されている。中でも「Assaramessuga(子供のころ)」という曲は個人的にも気に入っている曲。

◆Hamza El Din / Assaramessuga


きっと、とうようさんがいなかったら、ハムザさんが日本で正当に評価されるのがかなり遅くなっていたのではないだろうか。当然、「世界=アメリカ」という偏見から抜け出すのにも・・・。

そう考えると、とうようさんの尽力というのは、我々の感性のレベルを押し上げる大きな影響力を持っていたといえるだろう。

★追悼、中村とうようさんの遺産(3)・・・フェラ・クティ [⇒中村とうよう]

◆Fela Anikulapo Kuti & Africa 70 / Opposite People (1977)Fela_OppositePeople.jpg

1970年代はまだ、自分は子供だったのでその頃の日本人の音楽感覚というのがどういったものだったのかは、正確にはわからない。

しかし、フェラ・アニクラポ・クティ(1970年代前半~中盤まではフェラ・ロンサム・クティ)が登場した頃は多分、多くの日本人にとって「アフリカ音楽」という言葉から連想するのは、現地の人々が槍を持って集団で太鼓のリズムに合わせて踊っているような、そんなステレオタイプのアフリカ音楽のイメージだったのではないだろうか。

よもや、ギターやベース、ドラムスといった欧米と同じ編成によるポピュラー音楽が存在しているなんて、どれくらいの人が知っていただろうか。きっと、ほんの一部の音楽マニアくらいだったのではないだろうか。

そんな状況でのフェラの登場はそれこそ、かなりの衝撃だっただろう。そして、フェラの音楽が日本人に浸透するようになった背景には、当然、中村とうようさんの存在があった。

「フェラ・クティ」の名前を聞いて多くの人がすぐ思い起こす曲は、きっと「Zombie(ゾンビ)」だろう。1978年(オリジナルは1976年)の「ゾンビ」の日本盤が発売された時のライナーにとうようさんはこう書かれていたそうだ(自分は持っていないので又聞き)。

「後世の歴史家がポピュラー音楽の歴史を書くときに、1970年代の世界の音楽に占めるフェラ・クティの位置を、1960年代におけるビートルズやボブ・ディランに匹敵するくらい大きなものに見るのではないか」

果たして、この言葉が現実になったかどうかは、それぞれのリスナーの判断にお任せしたいが、決して的外れな意見ではない事は多くの人が同意してくれると思う。

残念ながら、フェラの音楽はオリジナリティが強すぎて、「フェラの人気」=「アフリカ音楽の認知」とまではいかなかったかもしれないが、それでも彼の音楽が多くのリスナーや様々な分野のミュージシャンに多大な影響を与えたのは歴史が証明している。

自分がよく知っているのは、教授(坂本龍一)が1980年のアルバム「B-2 UNIT」でフェラからインスパイアされた「Riot in Lagos」という曲を作っていた。

世間的にフェラの黄金期と言われる1970中盤~後半はどれも名曲ばかりで1曲だけをチョイスするのは難しいが、自分の好みで挙げるとしたら1977年に発売された「オポジット・ピープル(Opposite People)」にしたい。

他のフェラの曲と比べるとテンポが遅めのミドル・テンポの曲だが、トニー・アレンの迫力あるドラミングは素晴しいし、ホーンやフェラのサックスのソロなどはまさに絶頂期と呼ぶにふさわしい出来。

◆Fela Anikulapo Kuti & Africa 70 / Opposite People


自分が持っているこの曲が収録されたVictor盤のリイシュー・シリーズではカップリングに「I.T.T.(International Thief Thief)」が選ばれている。この曲もまさにフェラ火山爆発といったアフロ・ビートの醍醐味を感じさせてくれる一品。

現在、入手できるCDは「Sorrow,Tears&Blood/Colonial Mentarity」とのカップリングのようだが、こちらもフェラの代表作といっても良い名曲。買って損はない。

我々が普通にフェラの音楽を聴けるような状況を作ってくれた中村とうようさんに改めて感謝したい。


★追悼、中村とうようさんの遺産(2)・・・エルフィ・スカエシ [⇒中村とうよう]

80年代後半から興ったワールド・ミュージック・ブームはアラブ・アフリカを中心に注目された欧米とは違い、日本の場合はインド、インドネシア、香港、台湾などアジアの歌謡性の高い音楽に興味が注がれた。

特に、インドネシアはそのジャンルの多様性からも多くのファンを獲得していった。その中心と言えたのが、ダンドゥットの女王=エルフィ・スカエシだろう。

インドネシアが注目されたのは、ブーム以前から彼の地の音楽の魅力にいち早く気付き、積極的にプッシュしていたとうようさんやミュージック・マガジン周辺の影響が強かったと自分は思っている。

中でもエルフィはとうようさんのお気に入りだったようだ。一時期、第一線から退いていたエルフィが徐々に表舞台に現れ始め、最終的には久保田麻琴氏プロデュースによるアルバムを制作するに至ったのは、とうようさんを中心とした日本からの熱烈なラブコールがあったからこそではないかと、個人的には思っている。

そんな彼女の黄金期は何と言っても1970年代中盤から80年代中盤に録音された楽曲だろう。この頃の彼女の歌はとにかく粘っこく濃い。その濃密な歌唱法に最初はあまり馴染めなかった自分ではあったが、色々聴いているうちにその魅力に気がついた。

◆編集盤「ザ・ダンドゥット・クイーン」 70~80年代の曲を中心に集めたベスト集
エルフィ・スカエシ「ザ・ダンドゥット・クイーン」

中でも個人的にエルフィといえば、思い出す曲が「マンディ・マドゥ」。曲・歌共にこれでもか、と言わんばかりの濃密さ全開の名曲である。これが作られた83年前後は彼女の人気も最高潮だったようだ。

◆ELVY SUKAESIH / MANDI MADU


それとエルフィといえば忘れてならないのが、世間的も最高傑作の呼び名も高い「シリン・ファルハット」だろう。とうようさんもこの曲が収録されたアルバムをお気に入りだったようで、ベスト・アルバムの類の企画では良くこのアルバムを挙げていた事を記憶してる。

「シリン・・・」でのエルフィは「マンディ・マドゥ」などの曲を歌う時のような濃密さを全面に押し出し歌い方ではなく、どことなく女性の繊細さも感じさせる表現もしていて、ダンドゥットのイメージを押し広げることに大きく貢献したのではないかと思う。

◆アルバム「シリン・ファルハット」
シリンファルハット.jpg

◆ELVY SUKAESIH / SYIRIN FARTHAT


そういえば、自分も観にいった渋谷オン・エアーでのエルフィのライブを取り上げたミュージック・マガジンの記事で、とうようさんはエルフィとの2ショット写真を撮ってもらい、あまり見たことのない嬉しそうな顔をしてたなぁ。そのときの表情が今でも脳裏に焼きついていて離れない。

きっと、エルフィも遠いインドネシアの地で、とうようさんの訃報に悲しんでいるのではないだろうか・・・。

★追悼、中村とうようさんの遺産(1)・・・ヌスラット・ファテ・アリ・ハーン [⇒中村とうよう]

Twitterにも書いたのですが、さる7月21日に報じられた、音楽評論家で雑誌ミュージック・マガジンを立ち上げた中村とうようさんが亡くなられた件。

遺書らしき物もあり、自殺ではと言われていますが、現時点では核心的なことは分かっていない。

しかし、本当に自殺だとしても何故、齢80を目前にして自死を選ばなければならなかったのか、今はまだ納得が出来ない。わざわざそうしなくても、いずれ迎えが来ただろうに・・・。

自分にとってとうようさんが作ったミュージック・マガジンと言う雑誌は、単なる雑誌を越えた存在だった。正直、学校より教わった事が多いと思う。自分が読み始めた90年代初めからのマガジンは、すでにとうようさんが編集長ではなかったけど、まだまだその尖った感性が息づいていたと思う。

特に、レコードやCDのセールスに左右されない音楽のチョイスは、それまでの欧米中心だった自分の視野を大きく広げてくれた。

「良いものは良い」、「悪いものは悪い」と歯に衣着せぬ文章は、とうようさん以外のライター方にもしっかりと引き継がれていた。そのスタンスは今の自分の感性を築くのに大きな影響を与えてくれた。

そんなとうようさんと彼の分身とも言えるミュージック・マガジンから教わった、素晴しい音楽を追悼の意味も込めて、いくつか振り返りたい。

まず、とうようさんと聞いてすぐに思い浮かんだのはヌスラット・ファテ・アリ・ハーンだった。とうようさんは1987年に「アジア伝統芸能の交流・第5回」という企画で初来日したヌスラットを観て衝撃を受けて、その時から熱烈に彼の魅力を説き続けてきた。

その後、ヌスラットはカッワーリーという宗教音楽の枠を超えて世界的に有名になったが、1997年48歳の若さでこの世を去った。この事は、少なからず長年支持し続けてきたとうようさんにとっても衝撃を与えたのではないだろうか。

1997年10月号のミュージック・マガジンでのヌスラットの追悼記事では「彼はまだ大きな可能性を秘めた未完の大器で、これから何かをやらかしてくれるか楽しみな存在だったのに、その可能性を封印したままこの世を去ったのは、テレサ・テンの急死と同様に残念でたまらない」というような事を書いている。

ヌスラットはその強烈な存在感のあるヴォーカルが世界に衝撃を与えただけでなく、そのフレキシブルな感性でイスラム神秘主義の宗教音楽であるカッワーリーのあり方そのものにも大きな影響を与えた。

その理由を書く前にまず、次の動画を見ていただきたい。多分、彼の絶頂期の時のライブだと思う。

◆Nusrat Fateh Ali Khan / Mustt Mustt


6分弱の短い動画であるが、楽器の編成こそ違うがリズムやテンションは欧米の音楽に馴れてしまった我々の耳にも違和感なく聴くことが出来ると思う。

しかし、カッワーリーは本来、このような構成の音楽ではない。最初にその曲のキーの提唱や詩の内容の説明があり、徐々にリズムが加わり、ゆっくりしたテンポから少しずつ早くなり後半に近づくにつれボルテージが上がっていって、聴くものを音楽の中に引き込んでいく。これを1曲30分以上かけて行うのが普通だ。

ここで聴くことが出来るヌスラットのカッワーリーは彼が作り上げた独自のスタイルで、それは欧米での演奏を数多くこなし、聴衆の反応をつぶさに観察してきたからこそ辿り着いた境地だったのではないだろうか。

そんなふるい形式に捕らわれず、柔軟な感性を持ち合わせていたヌスラットには生きていれば、まだまだ我々を驚かせてくれたに違いない。

それを思わせてくれるのが、とうようさんが先の追悼文の中で「事件」と称している、1992年に横浜で行われたWOMADのフィナーレでのハプニング。

実は自分もその場に居合わせた幸運に恵まれたのだが、とにかくその事件ともいえるヌスラットの行動は我々だけでなく、ステージに立っていたミュージシャンの人たちをもビックリさせたようだ。

その貴重な映像をYouTubeにアップしてくれていた方がいらしたので、ここでも使わせていただこうと思う。

◆1992年、横浜WOMAD、フィナーレ(1)


◆1992年、横浜WOMAD、フィナーレ(2)


SANDIIの音頭でジミー・クリフの「You can get it if you really want」を出演者全員で歌ったのだが、当初、ヌスラットが歌う予定はなかったようだ。というか、打ち合わせで歌って欲しいと依頼したら断られたらしい。だから、本当だったらステージには出てきてくれたものの、座っているだけの予定だったのだろう。

しかし、いざ本番になったら、人が歌っている所で当然唸りだした。そして、一人でそのフィナーレを全部持っていってしまったのだ。しかも、アウトロで流れてきたSANDIIの「SAYONARA」のテープにも合わせて歌っている始末。この時のヌスラットはそうと機嫌が良かったんだろうな。

まったく自分の音楽とは畑違いの曲に瞬時に合わせることが出来る宗教音楽家なんて、そうそういるものではない。いや、彼以外にいない。

そんな、とてつもないポテンシャルを持つヌスラットの事をパキスタンから遠く離れた地に住む、日本人である我々が聴く事が出来るようになったのは、とうようさんのご尽力以外の何物でもない。

その事に関してとうようさんにいくら感謝しても、したりないくらいだ。

今ごろ、彼の地でとうようさんはヌスラットの生の声を楽しんでいるかな。
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